『ビワイチプラス』本日のライドは、堅田の歴史と女性にまつわる物語を辿るコース【プロジェクトレポート】
ビワイチプラスとコミュニティ【プロジェクトレポート2022/10/30】
プロジェクト授業「ビワイチプラスとコミュニティ」の様子を、地域実践領域の助手、ヤマダがレポートさせていただきます。
10月30日(日)は湖岸コースライドを行いました。雄琴にあるオーパルオプテックスを出発し、湖岸をふらりとめぐりつつ琵琶湖大橋を渡った後、ビワイチ発祥の地を折り返してくるコースです。
本日の参加者は、私、地域実践領域の助手ヤマダを含めて11名。
メンバーは、去年から引き続きこのプロジェクト授業を履修してくださっている方とはじめてクロスバイクを乗車するよ、という方が半々くらいです。
まずはオーパルにて、朝の挨拶とストレッチから。
裾のひろがったズボンじゃないか、
靴紐はゆるんでいないか、
クロスバイクはじめて講座を開いていただきつつ、今日のライドのわくわくがひろがって来ました。
ぽかぽか、爽やかな良いお天気です。
クロスバイクの変速機の使い方とポジションを確認したら、いざ出発です!
おとせの浜
まずは、本堅田湖岸緑地に到着しました。
この湖岸の公園は「おとせの浜」とも呼ばれています。
もうすこし行くと、浮御堂が見える場所に出ていけますが、加藤先生はここでストップ。
「おとせの浜」の由来を話してくださいました。
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<石碑の案内より>
「源平争乱の時代、堅田の出身で京都の源氏屋敷に奉公していた、おとせと言う女性がいた。おとせは、平家滅亡の際に源氏の白旗を守って大津に逃れ、平家の追手をさけて湖に飛び込むが、平家の侍に白旗を握った手を切り落とされて死んだ。片腕はこの地に流れ着き、浜の石を血で染めた。そして、片腕はおとせの子が指を開かせるまで、忠義を貫いて白旗を離さなかったとう。以来、この浜は、おとせの浜と呼ばれるようになった。その子は母の意志をついで白旗を守護し、のち木曽義仲の武将手塚太郎光盛になったという。この話は、寛延二年(一七四九)浄瑠璃『源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)』に役名を小万(こまん)と替えて取り入れられている。(大津市史より)」
おとせさん、という女性の片手がこの浜に流れついた、ということが、上の写真、奥の石碑に記されていました。
悲しいお話でしたが、最後に思いがけずホラー話な展開となり、びっくりしました。片腕だけになってもお仕えしている源氏への心をまもり、生まれ故郷へ帰ってきたおとせさんのことを想像し、この静かな浜で寂しい気持ちになりました。
片腕だけが琵琶湖を漂流していた、とはどういうことなのでしょう。源氏の白旗を握った女性の手をこの浜で見つけた誰かは、この浜でおとせさんの帰りをずっと待っていたひとかもしれません。
見慣れた浮御堂は写真におさめず、次のポイントへ向かいました。
晴れた琵琶湖をくぐって、琵琶湖大橋をこえる
成安造形大学は湖西にあるので、ビワイチのBIWAKOモニュメントがある守山市の第2なぎさ公園へは琵琶湖大橋を渡って行きました。
この橋に上では、サイクリストの方と多くすれ違うので、ひとこと挨拶コトバを交わしながら、琵琶湖の向こう側へ。
公園でちょいと休憩してから、もう一度湖西へ戻りました。
引き返しのくだり坂で、次に立ち寄る「道の駅 琵琶湖大橋米プラザ」が見えてきます。
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お腹が空いてきました。
道の駅 琵琶湖大橋米プラザ
道の駅の直売所で、地元のお店のお弁当やパンを購入。琵琶湖汽船さんの船着場を眺めつつ、お昼ごはんをいただきました。
あの大きな鳥にお昼のおにぎりを持っていかれたりするトラブルにも遭遇している人がおりましたが、おおむね平和な場所だと思いました。
唐揚げが美味しかったです。
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ゴールのオーパルに向けて、出発です。
勾当内侍(こうとうのないし)のお墓
こちらは野神神社の境内にあるお墓です。
匂当内侍さんは、足利尊氏と対立した新田義貞(にったよしさだ)の奥さんです。たいへんな美人だったそう…。
夫の義貞の戦死を聞いて琵琶湖に身を投げたという伝説があり、彼女を哀れんだ村人たちが後にお墓をつくって同地に野神神社を建て、氏神としたそうです。
加藤先生からはこのお話も丁寧に解説していただいたのですが、私はというと、その直前に「このお墓の石、守山石やなぁ!」という石川先生の言葉にひっかかって、そのことについてしばらく考えている間にすっかりメモを忘れておりました。
ちなみに、守山石はミルフィーユのような縞模様が入った見た目をしています。
ヒトの墓石を写真に撮るのはどうかしら?と思い、それを囲んで眺める面々の写真を残させていただきます。
野神神社の境内にこっそり立つ、この棒が気になりました。
なんだと思いますか?
これは、野神神社でつい先日執り行われたばかりの野神祭りで使用された“竹の(棒の)御幣”です。御幣とは、棒の先についた、白い紙のひらひらしたところのことを指します。
特別なお祭りの形態をとる野神祭りのことはさておき、この竹の御幣には地域の防災の意味合いも込められています。
私たちの頭のてっぺんよりもかなり高い位置にある御幣ですが、五穀豊穣の祈りが込められていると同時に、
お祭りに防災が含まれているなんて、とても強いメッセージだと思いました。
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琵琶湖湖岸をたどりつつ、堅田のまちをすすみます!
本堅田の都久生須麻神社(つくぶすまじんじゃ)
最後は、堅田の伊豆神社や比良薬局のすぐ近くなのですが、Googlemapにはうまく出てこないスポットに立ち寄ってくださいました。
琵琶湖に浮かぶ竹生島には宝厳寺と、こちらの神社と同名の都久生須麻神社があるそうです。
竹生島は古くから弁才天さまと龍神さまを祀って来た信仰の島。中世の堅田に漁業と水運が栄えた港のあったことから考えると、ここにある本堅田の都久生須麻神社も、水辺の暮らしと琵琶湖に関わる人々を永く守ってくださっている場所なのだと感じました。
ここで加藤先生が、近江学の研究者である木村至宏先生の説を取り上げ、なぜ琵琶湖が琵琶湖と呼ばれているのか、について想像する問いかけをくださいました。
「琵琶の基本的な各部の名称と自然発生的に形成された湖の形状とが、こじつけているところが少しあるにつけ、それにしても自然的な地形とうまく合致させている。(中略)
十四世紀初頭に琵琶湖が、楽器琵琶の形状に酷似していることによって呼称が由来することについては記述した。しかし、どうして湖が琵琶の形に似ているといえるのだろうか。現在のように飛行機やヘリコプターのように、上空から湖を眺望することがまったくできないとき故にまったく不思議であり、大きな疑問が残るのである。
木村至宏『琵琶湖-その呼称の由来-』146-147頁、サンライズ出版、2001」
琵琶湖の地形と呼称、弁財天信仰にも詳しいので更に興味をもたれた方はこちらの本をおすすめします。
上記は本の抜粋ですが、つまり「確かに琵琶湖は琵琶のかたちに似てるが、昔の人にとってはたとえ山から眺めても琵琶湖は大きな水たまりに見えたはず…。なぜ琵琶湖と呼ばれたんだろう?」ということです。
想像するヒントは、
①当時の人がこの大きな湖をどのように感じていたんだろう。
②滋賀県下の天台仏教寺院がひろがっているようす。
③弁財天さまが持つ琵琶の音色。
の三点。
私自身が楽器の琵琶の音色を実際に聴いて感じたことがないのではっきりとは言えないのですが、昔の人びとにとって、琵琶湖から感じる印象は現代よりも切実に神さまに近い存在だったのではないでしょうか。
その後、我々ライドメンバーは堅田の瑞祥寺や本福寺のとなりを通ってオーパルへ戻りました。
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今日のライドは、堅田の歴史と女性にまつわる物語を辿るコースでした。
ビワイチコースのどこから眺めても琵琶湖は琵琶湖ですが、誰がいつ、どんな気持ちで眺めるかによって、その大きさと自分との距離が変わっていくように思います。
弁財天さまの手の中の琵琶のように、片手だけになっても戻っていきたい場所であったように、暮らしといのちをぐるっと囲って、琵琶湖について想像した一日でした。
次のライドも楽しみです。
レポート:山田 真実(地域実践領域 助手)
《今日の滋賀県の自転車推進に関する取組み》
○滋賀県商工観光労働部観光振興局ビワイチ推進室
ビワイチサイクルツーリズムについて https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/shigotosangyou/kanko/300698.html
○輪の国びわ湖推進協議会 https://www.biwako1.jp https://www.biwako1.jp/wanokuni
○滋賀プラスサイクル推進協議会 https://pluscycle.shiga.jp
○ビワイチプラス https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/e-shinbun/oshirase/308896.html
○くさつサイクルフェスタ http://www.biwaichi.net
○レディーフォー・ビワイチ・モリヤマ https://www.city.moriyama.lg.jp/biwaichi/
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プロジェクト授業『ビワイチプラスとコミュニティ』
(担当:加藤賢治 教授・石川 亮 准教授)